2018年3月11日(日) 国際交流スピーチ会(かながわ県民センター 1501号室)
  
   海の命                小学校6年 王 序寰

みんなが知っているとおり、海の中にたくさんの魚や貝類などが住んでいます。
生き物たちが仲良く暮らしています。海は自然の宝庫です。
海の幸は人間にとって貴重なたんぱく質でもあります。
学校の給食にも魚料理がよく出てくるくらい、私たちにとって欠かせないご馳走です。
青い空、青い海、美しい大海原を満たすのは、色とりどりの魚たち・・・
ではなく、今プラスチックと言うことになりかねない深刻な状況は現実の問題でもあります。
日本海や太平洋側にも、魚のエサになるプランクトンが多く生存しているから、周りにはよい漁場となっています。しかし、いくら資源が豊富な海でも、むやみやたらにとったら魚が減っていく傾向が出てくると思います。
だから、私たちは今から対策を考える必要があると思います。
中国でも日本でも魚を食べる習慣があります。最近中国では魚が大量に死んでいたという報道がありました。それは海が大変汚染されているからだと思います。原因は工業廃水です。他にも、人間が捨てたプラスチックのごみを食べて死んだ魚も発見されています。
このニュースを見て、みなさんはどう思っているだろうか?
今後、私たちは海の汚染問題に対してどんな取り組みをすればよいのかを真剣に考える必要があると思います。
そこで、あと4か月で7月になります。7月1日は、海で泳いだり、海辺で遊んだりすることができます。そして、その時、みんなに守ってもらいたいことがあります。それは、各自で発生したごみを家に持って帰ることです。そうすることによって海はきれいに保つことができると思います。プランクトンなどの微生物も守られて、小魚も大きな魚も仲良く暮らせることができると思います。
問題の原因を作ったのが私達であるならば、この問題を解決することが出来るのもまた、私達人間以外にはいません。海はみんなのものです。みんなで守りましょうよ!
美しい海を守る、自分達では問題を解決できない海鳥やお魚たちなど、人間は人間以外の命を守る、そうしてその結果、はじめて、私達自身だけでなく、私たちの守るべき子どもたちも未来も守ることができるのです。



ぼくのなまえは おう しゅーせんくんです。
すきなたべものは カレーライスとおにぎりです。
すきなアニメは、ポケモンです
すきなひとは おにいちゃんです。
ありがとうございました。




ボランティア 二井野さんから
こんにちは。二井野と申します、シューファンくんと日曜日のお昼に勉強しています。
シューファンくんは、いつも礼儀正しくて、かわいい笑顔で来てくれます。知識を吸収しようという気持ちがとても強くて、とても熱心に授業に望んでくれます。私もその姿にモチベーションがあがる、がんばらないといけないな、と感じています。
4月からは中学生になります。これからも勉強やいろいろなことにチャレンジしてほしいと思います。ありがとうございました。

 
 

私が進む 私だけの道        三浦玲子


私は三浦玲子と申します。昭和20年2月21日に中国の太原で生まれて、天津で育ちました。
やっとの思いで中国から日本に帰国できた時、私の人生はすでに半分すぎていました。

46歳の時に「乳癌」と診断され、私は人生に終止符が打たれたように思い、目の前が真っ暗になってしまいました。でも「人生はこれからです」と主治医の一言。私の人生の再出発の希望を頂きました。「そうだ、私は、戦争の被害は受けたけど、幸い生きて日本に戻れた。まだまだ沢山の目標をもって、実現しなければいけない、病気には負けない」と心に決めました。それから、日本語検定2級、看護師の免許、ケア・マネージャーの資格を取りました。乳がんの手術をしてから26年になりました。無事でなによりです。

「光陰矢の如し」といいますが、父は検事で戦時中日本政府からの命令で、東北省の安東と奉天に赴任しました。また太原と張家口では領事の仕事をしていました。母は中国人で領事館の中国語の教師をしていました。

戦後の混乱期、引き上げが始まり、昭和21年5月に父は母に「必ず迎えに来るよ」と言い残し、天津から日本へ引き上げていきました。それから母の苦労が始まりました。母は小学校の教師の仕事に就きましたが、母の家族の生活と結核になった私の面倒で生活が出来なくなりました。再婚し妹と弟が生まれました、が、まもなく離婚しました。三人の子育てで生活はさらに苦しくなりました。母は文化大革命では日本のスパイと言われ、教師の職を失い、私は「日本小鬼子」と呼ばれ、私たちは筆舌に尽くせない苦しみを受けましたが、父が母に「必ず迎えに来る」という言葉を心の支えに耐えました。その後私は下放先で知り合った医師の陳書田と結婚し一男一女に恵まれました。

日中正常化に伴い日本へ帰る機会が訪れた昭和61年、41年ぶりの父との再会は嬉しさと悲しさが一緒になって涙があふれました。父はすぐに私の「認知」届出を済ませてくれました。日本語学校に通って、父と一緒の安穏な生活を過ごしましたが、悲劇は突然に訪れるものですね。一年後父が倒れて意識を無くしました。救急車で病院へ運ばれましたが、急逝しました。91歳の父親の人生の幕は閉じられました。その後、私はアパートを借りて、中国に残してきた夫と子供たちを呼び寄せました。父の死から11年後、中国に残った母も、亡くなりました。もし神様がいたら、来世で父と母が一緒になれるようにと神様におねがいしました。戦争は母と父のような別れの悲劇だけではなく、多くの人々の命を奪い、運命をくるわせるのです。

私は日本に帰国して幸せです。辛い経験も沢山あれば嬉しいこともいっぱいありました。言葉や生活習慣の壁はやっと70%位乗り越えられたと思います。私も古希をすぎました。73才になりました。人生100才時代を迎える中、健康寿命を延ばし、100歳になるまで、それを支えるライフプランを考えなければなりません。できるだけ長く介護の仕事を続けて行きたいと思っています。そして学ぶことにも生きがいを感じるので、日本語の勉強、武術やチャイナドレスの普及活動も続け、充実した日々を送りたいと思います。今まさに私の青春を謳歌しています。精一杯生きて、その時がいたら延命しないことを子どもに遺言しました。二度と戦争を繰り返さないことを願っています。ご清聴ありがとうございました。

ボランティア: 稲積さんから
三浦さんの今のスピーチを、私のクラスでみんなで聞きました。
そして、三浦さんの苦労してきた人生を聞いて、自然と拍手が起こったんです。(会場からも拍手が起きました)

 

将来の夢について        畠山美咲


みなさん、こんにちは。畠山美咲です。
私のスピーチは、将来の夢について発表します。よろしくおねがいします。
私の夢は二つあります。
ひとつはモデルです。理由は、モデルがどれだけかわいいか、みんなに教えたいからです。
そのためには、バランスよく食事をしたり、服選びのセンスをみがきたいです。
二つ目の夢は、チアリーダーです。わけは、みんなの夢をおうえんしたいからです。
そのために、大きな声を出せる人になりたいです。
二つの夢をかなえられるようにがんばります。


ボランティア 水本さんから
美咲さんと1年生のときから勉強しています。いつも、元気で、明るくてがんばっています。
苦手なこともあるんですけど、あきらめないでがんばって、できるようになったこともたくさんあります。
これからも、がんばって一緒に勉強していけたらいいなと思います。

 
 

私の故郷          高慶慶


皆さんこんにちは。高慶慶と申します。
今日は私の故郷である中国の山東省をご紹介します。
よろしくお願いします。

山東省は中国の東部、北京の南にあります。
日本から飛行機で三時間とすぐに行くことができます。

まず、有名な観光地をご紹介します。お勧めのところは泰山(たいざん)です。
世界遺産に登録された、中国では2200年前に、昔の中国歴代の皇帝に重要な山として、かならず一年に一回参拝しました。
泰山の高さは1500メートルです。山では美しいお寺や石刻などをたくさん見ることができます。

次に、中国では山東省は、歴史と文化が有名な省です。
また約2500年前に、中国文化に深い影響を与えた孔子(こうし)が山東省に生まれました。
孔子の名言「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」などは今日まで伝わっています。

山東人の性格は忠実で率直です。
今、日本の和歌山県と山口県は、山東省と友好関係を結んでいます。
みなさん中国へ旅行するなら、ぜひ山東省へいらっしゃってください。

以上です、どうもありがとうございます!

ボランティア 古舘さんから
みなさん、こんにちは。古舘と申します。高さんと去年の7月くらいから一緒に勉強させていただいています。
今、高さんと私の授業は、二人とも仕事が忙しくて、あまり時間をとることができなくて、月に1回くらい授業をさせていただいているんですけれども。今回のこのスピーチ、今日はじめて聞かせていただいて、私も、ぜひ山東省に行ってみたいなと思いました。
高:はい、ぜひ!ご案内します。ありがとうございます。
古舘:これからも、時間が取れるときに授業をしていきたいと思います。よろしくお願いします。

 

小学校最後の運動会           カバンサ・ジョン・デニス


皆さん、こんにちは。僕は小学校最後の運動会について話します。
皆さんは、充実について考えることがありますか。
ぼくが思う充実は、その時の内容がぎっしりつまっていること。または、思い出に残る経験のことです。
ぼくはそのことについて考えたいと思います。

ぼくはこの1年間で最も充実したと思ったのは、6年生の運動会の時です。
ぼくは、4年生の時からリレー選手になりたいと思っていました。
その理由は、運動会の高学年リレーを見て、とてもすごいと思ったからです。
フィリピンにいた時は勉強が中心だったので、体力は全然なく、運動は苦手でした。なので体力をつけるために、プールに1年間通いました。タグラグビーにも参加しました。5年生になった時は、リレー選手にはなれなかったけど、後期には、クラスで一番になりました。

そして6年生。ぼくは50m走で7秒台になり、学年では、6位になっていました。
8月のある日はリレー選手を決める日です。ぼくはとても緊張したけど、全力で走れたので良かったです。結果はあまり聞きたくなかったけど、自分の名前が呼ばれた時は、とても安心しました。ぼくは、紅組の黄色チームです。アンカーにはなりたくなかったので、第8走者にしました。そして、本番・・・。ぼくはとてもきんちょうしていました。ぼくのチームは、3位で1位と15mくらいはなれていました。ぼくの番になった時は、後半に、スピードがでたので、一位になれました。でも、そのうれしさでバトンをおとしてしまったので、また3位にもどってしまいました。ぼくは、とても後悔しました。でも、この運動会で学んだことは一つあります。それは、成功しても気をぬかないことです。ぼくは、1位になった時に気をぬいてしまったので、これからは、きんちょうかんを持って、きをぬかずに、行動したいと思います。

ぼくは、小学校生活の中で、この1年が1番充実していたと思います。ぼくは、このことを頭に入れて、中学校でもがんばりたいです。
ありがとうございました。


ボランティア 木野さんから
ジョンくんと、ジョンくんが小学校3年生の始めのときから勉強している木野です。
最初は本当に、日本語がほとんどしゃべれないときから来て、どんどん、どんどん、今はこんなことが言えるようになっています。
去年のスピーチ会では、6年になったら6年の夢はリレーの選手だと発表してくれました。毎回勉強しているごとに、今日のタイムはどうだったとか、どういう練習をしているという話を伝えてくれていました。その夢が実現できたのはすばらしかったと思います。そして、この1年、身長もどんどん伸びて、声もちょっとかわっちゃったりして、大人になったなという感じなんですが、スポーツにも音楽にも、勉強にも、やると決めたことはしっかりやっている少年です。これから、ジョンくんも中学にあがりますが、これからも楽しみだと思います。

司会 稲積さん
今、最後に「緊張感を持って」と言いいましたよね。わたし緊張なくなるように「わぁー」とかって言ったんだけど、ごめんね。緊張感がある程度ないとうまくいきませんね。

 
 

私の住んでいる町             高桂蘭


私の住んでいる町は、戸塚区柏尾町。柏陽台団地です。5階に住んでいます。
へやは広くて、まどからは、きがたくさんみえます。
さくらのきもあり、はるには、さくらの花がさき、とてもきれいです。きもちのよい団地です。
ちかくには横浜でいちばんおいしいパンのやまざきパンの工場があります。
私の家のうしろには、小学校と となりに老人ホームがありますが、高いおかねがかかるそうです。
団地の近くには、スーパーやコンビニはありません。
かいものは戸塚駅の近くや関内教室のかえりに横浜橋しょうてんがいに行って かいものをします。
すこしふべんですが、静かでとてもいいところです。
団地のひとたちも、みんな、なかがよく中国のひともたくさんすんでいます。ともだちもたくさんいます。
日本語やわからないことは、日本のともだちがおしえてくれます。日本料理もおしえてくれます。
つきに、いっかいみんなで、そうじするので、とてもきれいです。
私はこの団地がだいすきです。ずっとすんでいたいです。でも、こまることはひとつ。エレベーターがないことです。
これで私のはっぴょうをおわります。

ボランティア 福岡さんから
みなさん、こんにちは。高さんは戸塚しゃべり場教室で、金曜日に私たちと一緒に学習されている方です。
いつも、勉強家の高さんは、周りにわからない方がいらっしゃると、自分から進んで面倒をみてくれるような方で、クラスではリーダー的存在で、よくまとめてくれています。
そしてとってもお料理が上手なんですよね。日本の料理を習うとかおっしゃっていましたけど、きっと高さんはお近くの方にも中国料理をプレゼントされているんじゃないかなと思います。それで、とってもよく面倒見がいい方で、団地のおとなりの高齢者がいらっしゃる方のためにもごみを運んであげたり、今日はそういう発表はなかったですけれども、そういうこともされています。
今日は、高さん、大きな声で、はっきりと発表、ありがとうございました。

高:わたしは、先生、ありがとうございました。いつも先生は日本語を教えて、ほんとうにありがとうございます。
福岡:これからも、楽しく勉強しましょうね。今日は発表お疲れさまでした。
稲積:高さん、私も戸塚です。いいところだよね!

 

ぼくのこと           安瑞祺


みなさん、こんにちは。
ぼくのなまえは あんみずきです。日本に来て一年間くらいすんできました。
かぞくはパパとママ、ぼくの三人です。
いま、ぼくは戸塚小学校1年生です。
いっぱいともだちができて、いっしょにあそんだり、べんきょうしたり、うれしかった。

ときどき にほんごのことばがわかりません。
みずもとせんせいと ほかのせんせい、いろいろな おしえてもらって ともだちからも てつだって ほんとうに ありがとうございます。
4がつから2年生になって、もっと にほんごの べんきょうを がんばって、ともだちからたくさん作るとおもいます。
以上はぼくのスピーチでした。

ごせいちょうありがとうございました。

ボランティア 水本さんから
みずきさんとは、週に1回勉強しているわけではなくて、私が小学校にお手伝いに行っています。
入ってきたときは、本当に一言もしゃべれなくて、お友だちともめごとがあっても、言い返せなくて泣いたりしていたんですけど、今は口げんかができるくらいに日本語が上手になりました。2年生になってもがんばって勉強してください。

 

中学校3年間の思い出           畠山美咲穂


私は中学校三年間の思い出についてスピーチをします。
中学校は苦しくて忙しい三年間でしたが、とても人生で一番の宝物にもなりました。
そして一番の思い出は部活です。中1のときは、バレーボール部に入りました。
最初は日本語もわからなくて、とても大変でした。
毎日のランニングやトレーニングがとても辛くて辞めようと思ったときもありましたが、なかまがいつもそばにいてではげましてくれて続けて行こうと思ってがんばりました。
そして2年生になりレギュラーメンバーのあらそいがはげしく、けんかもありましたが、バレー部はみんながいい人で、すぐになかなおりができてとっても良い部活だなって思って、バレー部に入ってよかったと思いました。
ようやく3年生になって、引退も近づいて来て、受験にも忙しくとても辛かった1年間でした。
夏の大会の前は、勉強をおいといて番号ばかり気にして勉強が全然頭に入らなくて、テストの点数が落ちて、とても落ち込んで。その時はユッカの会の先生がいつも私に勉強を教えて下さって、みごとに公立高校に合格しました。ありがとうございます。
最後に私は卒業して思ったことは、もっと友達をいっぱいつくればよかった。けんかしなければよかった。
いろんなことに後悔しています。みなさんも後悔しないように今を大切にして下さい。


ボランティア 水本さんから
今日は、美咲穂さんと勉強している貴家先生も、林田優里先生も来ていらっしゃらないので、代わりに私が話します。
小学校の5年生の終わりに来日して、その時は本当に日本語が全然しゃべれなくて、でも中学3年間でここまで、書くことも読むこともしゃべることも上手になりました。
神奈川県には、在県枠という日本に来て3年以内だったら3科目で受験ができる制度があるんですけれども、それはもう3年過ぎているので使えなくて、日本の子どもたちと同じように受験をして、みごとに合格したので、がんばっていた姿を見ていたので。。。。
合格の知らせを聞いた時は本当にうれしかったです。高校でも頑張ってください!

 

日本のおいしいラーメン            朴英仙


はじめまして。
私は韓国から きた パクヨンソンです。
よろしくおねがいします。

私は いつも かんがえます。おいしい たべものを たべるためには じんせいは みじかいと かんがえます。
おいしいものを たべるのは だれでも たのしみだとおもいます。
私は 日本にきたとき たいへんでした。
日本語も ぜんぜん しゃべることが できないし。こどもも うまれたばかりで、たいへんなときには おいしい日本のものを たべると きぶんが よくなりました。
私はラーメン、タコやき、うどん、すし、コンビニの たべものが すきです。
そのなかで いちばん すきなのは ラーメンです。
韓国は ふつう はやく かんたんに つくれる インスタントラーメンです。
日本の ラーメンは たくさん しょくざいが つかわれ、だしも コクが あると かんがえます。
いろんな ラーメンのなかで みそを ベースにした とんこつラーメンが すきです。

私が すんでいる まちでは”メンリュウ“という ラーメンやが あります。
メニューのなかで ねぎラーメンがあり、とんこつの ベースで ねぎが たっぷり はいっている ラーメンです。
スタンプがあり、10かい たべると 1かい ただで たべることが できます。
私は 3かいぐらいは サービスで たべました。
ラーメンの はなしを したので、はやく ラーメンを たべたいとおもいます。
きょうの よるは かならず ラーメンを たべます。
おいしい日本料理を たべるのを かんがえると たのしみです。
いじょうです。
みなさん きいてくれて ありがとうございます。

ボランティア 稲積さんから
ボランティアの稲積です。私に話してくれた内容と、ちょっと変えた?
朴さんが原稿を見せてくれて、私が驚いたのが、「こく」。
「日本のラーメンはこくがあります。」「こく」ってことばは教えられないし、説明できないと思ったら。。。。。
(ご主人を紹介して)みなさん、ご主人のリュウさんです。ハーラムちゃんです。多分、今のスピーチは3人で一緒に作ったと思います。

 

新大さかのユニバーサルに行く          カバンサ・プリンス・ディビット


ぼくは、夏休みに 知り合いのおじさんとお兄ちゃんの3人でユニバーサルに行きました。
ぼくは、お兄ちゃんと一緒に、朝はやくおきておじさんが家に来るのをまちました
そしてすぐに電車に乗って新横浜の駅でしんかん線をまちました。
しばらくするとしんかん線が来て、しんかん線に乗ったら自分たちの席を見つけました。スマホを出して新大阪につくのを1時間待ちました。
そして新大さかの駅についたら、のりかえをして、大さかの駅で昼ごはんにおこのみやきを食べました。
お店を出たら、雨がふっていたから おじさんの家に すぐに行きました。
そしておじさんの家で、みんなでいっしょにあそびました。
夜になると夜ごはんを食べてみんなでトランプをしました。
ねる時間になったら自分の家じゃなかったから、そんなにおちつきませんでした。
次の日、はやおきをして駅に行ってユニバーサルに行きました。
ユニバーサルについたら、すぐにジェットコースターに乗りました。
乗り終わったら、トラックのレストランでお肉料理を買って、食べ終わったらすぐにふくがぬれるのりものにのりました。
ぼくは、ジェットコースターがいちばんわくわくしました。
1番楽しかったのは、下むきのジェットコースターです。
また、ユニバーサルに行きたいです。


ボランティア 木野さんから
デビットくんは、今年はすごく成長したと思います。
「自分で今年どうだったと思う?」と聞いたら「わからない」と言っていたのですが、私の目から見たらとても成長したと思います。
国語が苦手だったんですけど、漢字を書いて、それもしっかりした字で書いて、例文を作ってということを、本当に地道に練習できるようになりました。今は、お兄さんのジョンくんとお兄さんと3人でホワイトボードに漢字のしりとりをできるくらい、漢字が分かるようになりました。デビットくんは世界で起こっていることにとても関心があります。戦争のこと、平和のこと、環境のこと、国のしくみのことをしっかりした言葉で話してくれます。このまま、元気に育っていってほしいと思います。

 

日本に帰ってきて一番楽しかった事         付麗娟


みなさん、こんにちは。酒井恵子と申します。
私は信濃先生クラスで勉強しています。先生ありがとう。

今日のテーマは日本に帰って来て一番楽しかった事。
今思い出すと、15年前の夏休みのことです。私の家族は、全員20人で肉や、魚や、バーベキューのセットをもって、湯河原へ行きました。主人と男の人達はみんな肉や魚などを焼いて、賑やかなバーベキューが始まりました。
主人は、「オーイみんな食べろ」と大きい声で言って、孫たちはすぐ飛んで来ました。みんなけんかしたり、笑ったりしながら、楽しく食べました。主人はお酒が大好きなので何度も乾杯をしてみんな一緒に楽しみました。そしてスイカ割りです。小さい孫たちはできなかったけど、大きな孫がしたら、なんとスイカは割れて遠くへ飛んで行きました。みんなで大笑いしました。
それから主人の会社の寮の温泉旅館へ行きました。私の家族は孫が多くて、うるさいかと心配しましたが、その日は私の家族だけだったので安心しました。夜はみんな麻雀とか、カラオケをしました。主人は歌が上手で、孫たちと一緒に歌ってとても楽しかったです。
日本に来たときは家族6人でした。13年過ぎて20人になりました。子供達は正しく、まじめに仕事をがんばっています。孫たちは元気で、活き活きと成長しています。これは私と主人の最高の幸せでした。
でも、9年前に主人がなくなってしまいました。私の家族は寂しくて、賑やかな雰囲気が減りました。
しかし、嬉しい事もあります。平成26年10月から、配偶者にも年金が支給されるようになりました。老後の生活は安心できるようになりました。

最後、私の希望は、私の家族みんなお互いに元気でがんばって仕事、孫達は良い教育を受けて、良い人になってと思います。
私は一人ぐらしです。毎日、できることいろいろやります。例えば、お花を育てるとか、日本語で日記書くとか、ゲームとかあそびます。
今、私は幸せです。本当に日本に帰って来て良かったです。
私の発表は終わりです。

ボランティア 信濃さんから
しゃべり場で毎週1回、付さん含めて8人の学習者さんと一緒に日本語を勉強しています。みなさん、お菓子を持ち寄って、お菓子を食べながら、わいわいにぎやかにやっています。その中でも付さんは、家はここから非常に遠く平塚なんですが、とても出席率がよくて、ほとんど休まないんです。いつも真面目に勉強していまして、質問も、結構厳しい質問が出たりしまして、私もタジタジになったりしているのですが。
今日のスピーチ、みなさんもお聞きになっておわかりだ思うのですが、全部覚えています。原稿を見ないんです。ですから、日本語として、自分の頭の中で考えて言葉にしているということで、とてもすばらしいスピーチだったと思います。これからも、楽しい生活を送っていただきたいと思います。これからも日本語頑張りましょうね!

 

私の日本の暮らし          ヘイヨン・ベネット


みなさま、こんにちは。よろしくお願いします。

夫と私は 2015年8月10日、 アメリカから日本に引っ越してきました。
夫が 横須賀の米海軍基地の 船舶修理 アシスタントチーフエンジニアになったからです。
日本に来てしばらくは アメリカの生活がなつかしかったです。 
特に 息子に会えないことがとても 悲しかったです。
私は 音楽の教授としての アメリカでの生活がなつかしく、とても 寂しかったです。
私は 友人と 音楽活動のすべてを 失いました。日本への移住は 私の人生で行った 最大の決断の一つでした。

私は 日本で生活するのは 大変だと思いました。私は 落ち込んでいました。友達がいない、仕事もない、私は 自分の時間を どのように使ったらよいのか 考えていました。その頃 横須賀のコミュニティーセンターを通じて 米海軍基地で ピアノとハープの先生に なることができました。 音楽の指導を続けることができるので とても嬉しかったです。

その次に 日本語を勉強する場所を探すことが大事だと 気づきました。なぜなら 標識や看板を読み 意味を理解したいからです。そして日本人と会話をしたいからです。

最初の日本語クラスは 米海軍基地にありました。湯瀬 鈴子さんは 親切な良い先生でした。
彼女は 友達の日本の伝統音楽コンサートに 誘ってくれました。コンサートの後で、私は演奏者に会いました。その中のひとりが お琴の奏者の カガリさんです。

私は 英語が上手なカガリさんと メールのやり取りを 始めました。 カガリさんは 彼女らのコンサートに参加するように 誘ってくれました。翌年 秋に行われたお琴と尺八とハープのコンサートは 大成功でした。 私は ハープを楽しく演奏することができました。そのコンサートは 今年もあります。11月10日 土曜日 横須賀ベイサイド・ポケットです。今から楽しみです。

鈴子さんが 横須賀総合福祉会館の 日本語クラスを 紹介してくれました。横須賀総合褔祉会館で 高田 清子さんに 会いました。清子さんは 私の初めての日本語個人レッスンの先生に なりました。清子さんは いろいろなことを知っているクリスチャンで、とても面倒見が良い人です。2016年6月26日、清子さんの教会で 私が 一人でピアノとハープのコンサートをする機会が 与えられました。横須賀中央教会は 完全に 聴衆で埋まりました。コンサートはとても 好評でした。私は演奏会の後 とても良い気分でした。
(その時の写真をお見せします)

米海軍基地の教会で ピアノとハープの 講義演奏会を 開催したこともありました。
ホーム・スクーリングで学習する小学生と その両親が 来ました。
(その時の写真をお見せします)

2016年4月、夫と私は横浜に 引っ越しました。横須賀の日本語クラスに通うのは 不便になりましたので ユッカの会に連絡しました。2017年1月 かながわ県民活動サポートセンターで ユッカの会 木野さんに 問屋さんを 紹介していただきました。 それから問屋さんは 私の日本語の先生になりました。問屋さんが 私の先生だと とても恵まれている気がします。彼女の英語はすばらしい。(問屋さんを紹介して)問屋先生です。私は 楽しく 日本語の勉強を しています。

2年前には サン・モール・インターナショナル・スクールのピアノ 伴奏者になりました。また、横浜インターナショナル・スクールの 弦楽教師と ヘンデルのハープコンチェルトを 演奏 することが できました。そのコンサートは2017年2月26日、YCACで 開催されました。
(その時の写真をお見せします)

こうやって日本で暮らしていくうちに 私には何人かの 良い友達が できました。二人はプロの音楽家です。Charlotte Horn さんは バイオリニストで 菅沼志保子さんは ピアニストです。楽しく交流しています。

私の日本の生活は忙しくなりました。毎日 充実していて 楽しいです。仕事をさがし、日本語を勉強し、友達を求める私の努力が 報われた気がします。
ありがとうございました。


ボランティア 問屋さんから
ヘイヨンさんと1年2か月ぐらい前から日本語を勉強しています、問屋と申します。昨年の勉強し始めてすぐ、2か月くらいで このスピーチ会に出るとおっしゃって、出られました。非常にポジティブな方で、日本語は私がお教えしていますけれども、その他、人生で必要なことは、私がヘイヨンさんから習っています。これからもよろしくお願いします。

 

日本の温泉            李爽


みなさん、こんにちは。私は 李爽です。李 と 呼んでください。
私は、日本に 来て たくさん好きなものを見つけましたが、桜と 温泉の印象が 深いです。まずは、桜です。去年 4月の花見で癒されました。特に東京目黒で、川に沿って満開の桜はきれいに並んでいました。珍しいと思います。今年、他の有名な花見場所を探していきたいです。
次は温泉です。箱根と日光しか行ったことがありませんが、すごく感動しました。
温泉に入れて、体をリラックスができます。さらに、細かいところをサービスしてくれました。
例えば、足のサイズを合わせて、スリッパを用意したり、夕食の時に家族全員の名前が書いてあるメニューが座席に置いてありました。とても思い出深いです。
他の 有名な 温泉にも 行きたいです。
1年間くらい住んでいますが、いろいろな人は手伝ってくれました。とくには、ユッカの会の先生たち、本当にありがたい。水本先生と木野先生とありがとう。
これから 日本の生活にいろいろ頑張りたいことはあります。よろしくお願いします。
以上です。ご清聴ありがとうございました。

ボランティア 木野さんから
金曜日の午後に戸塚で水本さんと私が、だれでも来ていいですという勉強の時間をやっています。李さんは、その時間にやっているときはほぼ、というかほとんどお休みなく参加してくださる熱心な生徒さんです。8番目に発表した安みずきさんのお母さんです。
あらゆる機会をとらえて勉強したい、というとても貪欲に学ばれる方です。日本の生活で困ったり、それから苦労されていることもありますが、その反面、日本の生活をとてもエンジョイされている、そんな方です。これからもよろしくお願いします。

 

サイバーはんざいを なくす           ハムザ・アミール


こんにちは。
私の名前は、ハムザ アミールです。13さいです。パキスタンから 来ました。
私は パソコンを 使うことがすきです。ときどきは プログラミングを しています。

私は さいきんは ソフトウェアを 作っています。
おくられてきた ファックスを かみに いんさつしないで パソコンに入れて
ほしいものだけ いんさつできる ソフトを 作りました。
お父さんの会社でも つかわれています。
サイバーはんざいを する人のことを ハッカーと いいます。
ハッカーには 三つの しゅるいが あります。
ホワイトハットと、グレーハットと、ブラックハットです。ホワイトハットは、いいことを するひとです。グレーハットは いいことも わることも しているひとです。ブラックハットは、わることを しているひとです。

パソコンのソフトは 人のやくにたつ つかいかたと はんざいにかかわる つかいかたがあります。
たとえば パソコンやけいたいの データをぬすむ人たちがいます。
この人たちは ブラックハットです。
いぜん 日本でも ぬすんだデータを つかって つくった にせのカードで コンビニのATMから 何億円 ひきだされた じけんが ありました。
また、たにんの IDをつかって わることをする人も います。本当の IDの もちぬしが はんにんにされる じけんも ありました。
わたしは しょうらい ITのエンジニアになって、サイバーセキュリティのソフトウェアを作って、サイバーはんざいを なくしたいです。


ボランティア 二井野さんから
よくがんばりましたね。彼は、今日のスピーチ「原稿を見ずに、覚えて話すんだ」と頑張っていました。
彼と勉強していると、難しい話がとても多くて、いろいろな事に詳しくて、歴史のこと、世界のこと、世界のエネルギーについてとか、パソコンのことはもちろんなんですが、本当によく勉強していて、よく知っていて、エネルギーの塊です。
彼とは5年生から一緒に勉強しています。5年生の時は本当に子ども子どもしていて、かわいらしかったのですが、この3年間で、特に去年あたりから 急に大人になって、見かけはもう25歳のように見えるんですけど、中身はまだまだ本当に中学校1年生で、かわいらしくて、勉強しても何をしてもとても一生懸命な人です。これからさらに頑張ってください。

 

日本での幸せな瞬間                ウ 凌波


みなさま、こんにちは。
私は中国から参りましたウ綾波と申します。
今日は日本での幸せな瞬間についてお話ししたいと思います。よろしくお願いいたします。
私は2015年10月末、夫の仕事の関係で日本に参りました。横浜に住んでおります。

初めての外国生活で、日本語の能力不足で仕事がうまく行かないこともありましたし、家の近くの駅で夫とはぐれて飛行機に乗り遅れることもありました。様々な困難に逢いました。しかし、今、私の心に深く残っている思いは幸せな瞬間のことです。

日本に来たばかりの時、一人で日本語学校を訪ねた後 電車の駅が見つからず困っていました。周りの人に尋ねたかったのですが 日本語が出なくて焦っていました。その時、親切な人が英語で話しかけてくれ 駅まで送ってくれました。この人が私に声を掛けてくれた瞬間 幸せでした。

2年前学校で日本語を勉強しながら、アルバイトをしました。授業とアルバイトの間が短かったので、いつも一生懸命駅まで走っていました。ある日、私の目の前で電車のドアが閉まってしまいました。がっかりした時、突然ドアが開いて 近くの駅員さんが私に微笑んで頷いてくれました。このドアが開く音を聞いた瞬間は幸せでした。

一年前から、ユッカの会の先生と出会って 週末に日本語レッスンを受け 丁寧に日本語と日本の礼儀について教えていただいて 非常に感謝しています。毎回あーすぷらざの教室で 私たちを待ってる先生の姿を目にした瞬間、とっても幸せな思いでいっぱいになります。

朝出かけるとき、マンションの階段から西の方向に、雪の帽子をかぶってる富士山を目にする瞬間も幸せです。私にとって富士山は世界一綺麗な山だと思っています。毎日その山が見られる幸せを感じています。

外に出て寒風の中健気に一輪の赤い椿が咲いているのを見た瞬間が幸せでした。こんな弱い生物も頑張って自分の命を輝かせているんです。私の悩みは取るに足らないでしょうか?!!

私は小さいころから たかが大好きです。ふるさとで飛んでるたかを見たことが一回だけあります。今日本で よく とんびを 見ます。大きな輪を描いて飛んでいる姿を見る瞬間は本当に幸せです。私も力強く未来へ頑張っていこうと誓います。

いろいろな幸せな瞬間は、私の脳裏を駆け巡ります。出会った人に好意を持って、親友に関心を払って、毎日を大切にすることを私に思い起こさせます。
みなさまも生活の中にいいことを発見して、自分の幸せの瞬間を抱いて、日々幸せに暮らしていかれることを祈ります。

ご清聴、ありがとうございました。


司会:残念ながら、ご一緒に勉強している小池先生がいらっしゃらないので、一緒に3人で勉強しているご主人から一言お願いします。

王と申します。
1年前からユッカの会の小池先生と一緒に日本語を勉強しています。
今日は小池先生はいませんけど、ずっと私の妻綾波の発表をサポートしてくれています。小池先生は、私たちに日本語を教えただけじゃなく、日本で困ることを助けて丁寧にアドバイスしてくれること、感謝しています。
先生と出会ってうれしかったです。

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